七月七日、足助町怒田沢へ。

奥まった山間にわずか十数戸の家がある。

「怒田沢」の名の通り、雨が降ったら一気に怒ったように荒れる川筋に、

張り付くようにわずかな田んぼと家。

滅多に車も通らない静かというより人口音の全くない村。

時折チェーンソー、草刈機の音。

私の最も忘れたくないものに囲まれた風景。

それが今最も忘れられようとしている村になりつつ有るというのだ。

それで私達は昨年に続きやってきた。

もちろん、芝居を演りに。

怒田沢には「寶榮座」という歌舞伎小屋がある。

奥三河には80カ所くらい「農村舞台」(主に明治頃建てられた)がある。

現在も芝居を行なっている所は数カ所だけだ。

かって三河地方は歌舞伎とは「覧」に行くものでなく「演」るものであったのだ。

なんと豊かで幸せな…。

それが戦争でいっぺんに無くなった。

小屋が爆破されたわけではない。

戦前、戦中、戦後の20年間、演じる人の体と心を凍らせた。

三味線を持つ手は銃に。

私は思う。

戦争で失われたものは国土や人命や財産だけでない。

人から人へしか伝わらないものが20〜30年、ちょうど一世代スポッと抜けた。

それで今、建物はあるが灯が灯っていない所がほとんど、それもやがて消える。

で、それではあまりにも惜しいと、一昨年私のところへ電話が入った。

「原さん、もういっぺん芝居してくれ。」

もちろん受けた。

それで昨年、今年と続いている。

「もういっぺん」ーとは、1985年から15年間、

ロック歌舞伎スーパー一座演劇研修所卒業公演、

村の人達の歌舞伎復活上演のお手伝い、地元小中学生歌舞伎クラブ指導など、

深いつながりがあったからである。

 

17年ぶりの怒田沢は、風景も小屋も昔のまま。

周りの木々が太くなった分、村の人も年をとった。

会って挨拶をしようとしたら、

「原さん年取ったな」って先に言われて大笑い。

皆歌舞伎が好きなんだな。

昔の舞台の話になると、パッと顔が輝く。

子供の様、シワも伸びる。

戦前の話だろうが、連日の稽古で家の床が抜けた事もあったそうな。

さて、7日は舞台の仕込みリハーサル、村の人は客席の上をテントで覆う。

昨日まで続いた大雨はなんとか避けられそうだが、夏なので日除け。

また、屋根があると役者の声がよく通りセリフが分かる。

今年は2回目という事で、双方手際よく仕事が進み、

陽が傾く頃には皆待望の風呂&ゴハン。

車で10分の所にあるひなびた白鷺温泉へ。

夕食は地元の人が集まるカフェというか定食屋というかサロンへ。

メニューいっぱいの、量もたっぷりの地元メシをしっかり食べて、

村の公民館で各自寝袋でゴロ寝。

私はkさんのお宅でよもやま話。

翌8日、快晴。

気分スッキリ、お客もたくさん。

スーパーコミック歌舞伎「勧進帳」で幕開き、

義経一行が「イエローサブマリン」で能天気に登場すると、

客席のおじいちゃんおばあちゃんから、これまた一斉に沸き起こる手拍子。

 

また、芝居の最中、役者より早くセリフを唱えるおばあちゃんもいる。

「なんだ、この能天気なノリは!」

「ソーダ、ココデハシバイハミルモノデナクヤルモノナンダ」

正に芝居の王国だ。

120年の年を経た自分達の手で作った芝居小屋「寶榮座」。

舞台幕もそのまま、本当に宝だ。

客席の背後に諏訪神社、当然ながら舞台の芝居は後ろの神さんにも捧げているのだ。

神=自然=人

ぐるり繋がった「場の力」。

これがアットホームな暖かい一体感を生み出す元なのだ。

この開放感は昨夜浸かった温泉と同じだ。

芝居の醍醐味を教えてくれる小屋と怒田沢の人達に感謝。

 

昨夜、気さくなkさんとの話の後、私は思った。

村の人も家も少なくなっていく現状は、

世の移ろいで仕方がない。

この美しい田も畑も屋敷さえもいつか本当に消えてしまうかもしれない。

しかし先の事は誰も分からない。

今私にできる事は、寶榮座の灯を1つ灯す事。

この先どんな人がこの風景の美しさに惚れてやってくるか分からない。

その風景の中に灯の灯った芝居小屋があることを祈る。